• 観光

「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑯ 箸中・箸墓の戦(桜井市)

「壬申の乱」は672年に勃発した古代日本最大の戦乱です。奈良・飛鳥から滋賀・大津に遷都した天智天皇(当時は「大君」)の後継の大君に同母弟の大海人皇子が有力視されていましたが、天智天皇は息子の大友皇子を後継にしようと太政大臣に任命しました。大海人皇子は“兄にとって大友皇子を大君にするには、私が一番の障壁だ”と身の危険を感じて、奈良吉野に移り住みました。
やがて天智天皇が崩御。大友皇子は「叔父を生かしておいてはならぬ」と考え、吉野への物資供給網を封じたり、配下に武器携帯を命じたりしました。この動きを察知した大海人皇子は「このままでは…」と挙兵を決断。両軍一進一退の後、大海人皇子軍が優勢となり、勝利。大海人皇子は天武天皇として即位しました。
2022年、壬申の乱から1350年が経ちました。奈良に伝わる「壬申の乱」スポットを巡り、シリーズで紹介していきます。

⑯箸中・箸墓の戦(桜井市)

 

大海人皇子・大伴吹負軍の大和勝利を決定づけた決戦

 

乃楽山、高安城・衛我河で連敗した大海人皇子側の将軍大伴吹負は、当麻の戦で起死回生の戦勝をつかみ、自信と威勢を取り戻しました。

 

当麻を後にして、飛鳥の本営に戻った吹負を、さらに東方からの援軍が迎えてくれました。そこで吹負は奈良盆地を南北に通貫している上ツ道、中ツ道、下ツ道の守りを固める策を取り、吹負は中ツ道に陣取りました。

 

そこを朝廷軍の大軍が進んできました。規模に劣る吹負軍は撤退を余儀なくされますが、なんとか防戦する部隊もいて、かろうじて難を逃れることができました。

 

一方、上ツ道の高市麻呂(たけちまろ)と置始菟(おきそめのうさぎ)が率いる軍勢は、箸陵(箸墓)付近で朝廷軍と戦い、これを大破します。高市麻呂と置始菟らは余勢を駆って中ツ道の吹負軍の救援に向かいます。一気に膨らんだ吹負軍の勢いに、中ツ道の朝廷軍は応戦できず、敗走しました。

 

この決戦が繰り広げられた箸陵(箸墓)には、3世紀後半築造とされる箸墓古墳があります。宮内庁は第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓だとしていますが、卑弥呼の墓ではないかという学説もあります。

 

古墳の西側に接するため池は、箸中大池。池越しに墳丘を見ると、右に前方部、左に後円部が見て取れ、その背景に三輪山や、「やまとはくにのまほろば たたなづくあおがき~」で知られる“あおがき”の山稜を眺望することができます。3~4月は池の畔に咲き誇る菜の花や桜が見事です。

 

この戦いの後、大友皇子の朝廷軍が大和に侵攻してくることはなく、大海人皇子側の大伴吹負軍は大和での勝利を確定させました。なお、吹負の軍勢は大和から大阪へ向かい、難波(なにわ)も制圧しました。

 

壬申の乱の主戦場は近江大津へ移り、いよいよクライマックスに突入していきます。

 

「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑮ 当麻の戦(葛城市)

「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑰ 飛鳥浄御原宮(明日香村)
☆観光スポット