やがて天智天皇が崩御。大友皇子は「叔父を生かしておいてはならぬ」と考え、吉野への物資供給網を封じたり、配下に武器携帯を命じたりしました。この動きを察知した大海人皇子は「このままでは…」と挙兵を決断。両軍一進一退の後、大海人皇子軍が優勢となり、勝利。大海人皇子は天武天皇として即位しました。
2022年、壬申の乱から1350年が経ちました。奈良に伝わる「壬申の乱」スポットを巡り、シリーズで紹介していきます。
⑭乃楽山の戦(奈良市)
大海人皇子軍の将軍・大伴吹負、敗れる。
「乃楽山」は、「ならやま」と読みます。現在の平城山丘陵(平城宮跡の北側から鴻ノ池運動公園、平城・相楽ニュータウンなど京都府木津川市に広がる丘陵帯)とされ、『日本書紀』では「那羅山」とも記されています。
飛鳥の戦に敗れた大友皇子朝廷軍は、当然、父祖伝来の旧都・飛鳥を奪還しようと画策します。現在の三重県側から大和に入るルートは大海人皇子軍に抑えられていたため、近江から大和へ入るルートは、京都から南下するルートに限られました。その際、避けて通れないのが、乃楽山でした。
それを読んでか、大海人皇子軍の将軍・大伴吹負は軍勢を引き連れて乃楽山に向かい、朝廷軍と戦う準備を進めました。しかし、冷静になると、飛鳥に残した部隊が少なく、守りが弱いのではと心配になりました。
そこで、大伴吹負は主力の一部を飛鳥に帰しました。また、本連載「13 高安城・衛我河の戦」で既述した通り、「河内(大阪)から朝廷軍の軍勢が攻めてくる」との情報もあり、吹負は河内方面にも部隊を差し向けました。
そうなると、乃楽山に残る軍勢が縮小するのは自明。吹負軍は大野君果安を将とする朝廷軍を迎え撃ちましたが、数の差にも押され、吹負軍は打ち負かされてしまいました。敗走した吹負でしたが、今の宇陀で援軍と合流し、軍勢を立て直し、挽回の機会を図ることになったのです。
飛鳥では勝利した大海人皇子軍でしたが、高安城・衛我河と乃楽山では連敗を喫します。戦乱の主導権は朝廷軍が握りかけたように思えましたが…。次の「当麻の戦」が大きな岐路になりました。
「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑬ 高安城・衛我河の戦(平群町)
「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑮ 当麻の戦(葛城市)
☆観光スポット
施設名 | 「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑭ 乃楽山の戦(奈良市) |
---|---|
住所 |
〒630-8105
奈良県奈良市佐保台1丁目[JR平城山(ならやま)駅] |