やがて天智天皇が崩御。大友皇子は「叔父を生かしておいてはならぬ」と考え、吉野への物資供給網を封じたり、配下に武器携帯を命じたりしました。この動きを察知した大海人皇子は「このままでは…」と挙兵を決断。両軍一進一退の後、大海人皇子軍が優勢となり、勝利。大海人皇子は天武天皇として即位しました。
2022年、壬申の乱から1350年が経ちました。奈良に伝わる「壬申の乱」スポットを巡り、シリーズで紹介していきます。
⑬高安城・衛我河の戦(平群町)
大海人皇子軍とて連戦連勝ではありませんでした。
飛鳥の戦で勝利を収めた大伴吹負は、次に乃楽(奈良)に向かいます。その途中、「河内(大阪)から朝廷軍の軍勢が攻めてくる」との情報が入りました。将軍である吹負は武将の坂本臣財(おみたから)に別動隊を編成させ、河内方面へ向かわせました。
坂本臣財は朝廷軍が高安城(たかやすのき/奈良県平群町と大阪府八尾市の府県境)にいるとの情報により、高安城へ攻め登りました。坂本臣財が高安城へ到着したのは、朝廷軍が高安城の税倉(倉庫)を焼き払って、どこかへ去った後でした。
坂本臣財の部隊は山から大阪側を見下ろして、朝廷軍を探したところ、衛我河(えがのかわ・現在の石川)付近にいるのを発見。山を下り、衛我河を渡ったところで朝廷軍の将軍壱伎史韓国(いきのふびとからくに)が率いる軍勢と戦いました。
しかし、多勢に無勢。坂本臣財部隊は兵力で上回る壱伎史韓国の軍勢に退けられ、無念、飛鳥へ退却を余儀なくされました。敗走した坂本臣財でしたが、飛鳥に戻ると援軍を得て軍勢を再び整え、逆襲の機会をうかがうのでした(当麻の戦へ)。
高安城は、天智天皇が朝鮮半島に出兵して大敗を喫した白村江の戦を機に、唐や新羅に大和が攻め込まれることを警戒して、各地に築いた国土防衛のための山城のひとつです。具体的な遺構は残っていませんが、倉庫址礎石群が当時の名残をとどめています。
高安城跡にアクセスするには、奈良側からは生駒・信貴山スカイラインを利用し、大阪側からは近鉄西信貴ケーブルを利用します(信貴山口駅~高安山駅)。
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☆観光スポット
施設名 | 「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑬ 高安城・衛我河の戦(平群町) |
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住所 |
〒636-0924 奈良県平群町久安寺
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