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「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑧ 入野峠(吉野町)

「壬申の乱」は672年に勃発した古代日本最大の戦乱です。奈良・飛鳥から滋賀・大津に遷都した天智天皇(当時は「大君」)の後継の大君に同母弟の大海人皇子が有力視されていましたが、天智天皇は息子の大友皇子を後継にしようと太政大臣に任命しました。大海人皇子は“兄にとって大友皇子を大君にするには、私が一番の障壁だ”と身の危険を感じて、奈良吉野に移り住みました。
やがて天智天皇が崩御。大友皇子は「叔父を生かしておいてはならぬ」と考え、吉野への物資供給網を封じたり、配下に武器携帯を命じたりしました。この動きを察知した大海人皇子は「このままでは…」と挙兵を決断。両軍一進一退の後、大海人皇子軍が優勢となり、勝利。大海人皇子は天武天皇として即位しました。
2022年、壬申の乱から1350年が経ちました。奈良に伝わる「壬申の乱」スポットを巡り、シリーズで紹介していきます。

⑧入野峠(吉野町)

 

大海人皇子一行の吉野脱出ルート

 

入野は「しおの」と読みます。吉野町・国栖の北方にあり、伝承では、吉野で決起した大海人皇子は入野峠を越えて、宇陀・阿騎野へ向かいました。
現在でも入野トンネルを抜けて、国道370号を走るルートは、吉野から宇陀に至る快適なルートになっています。
大海人皇子は、吉野~入野~宇陀阿騎野、そして伊賀~鈴鹿~桑名を踏破して、不破・野上(関ケ原)に陣を張りました。その意味では、入野峠は最初の難所だったといえます。

 

入野トンネルを抜けると、すぐに右折。近くにある林道に入って進みます。大海人皇子の時代、もちろんトンネルも舗装道路もなく、山を覆う木々も現代のある程度整頓された植林ではなく、八方を塞ぐ雑木林が深く立ちはだかったことだろうと思われます。

 

林道の途中に「上宮神社」があります。旧村社で、石穂押分命を祀っています。この祭神は神武天皇が吉野に入った際に奉迎した国栖の里人の祖とされているようです。人家から離れていますが、境内は定期的に手入れがなされているようで、地元で大切にされていることが伝わってきます。

 

入野峠の近くで、白い沈丁花やツツジがひっそりと咲いているのを見つけました。人目(特に大友皇子勢力)につかないよう夜闇に紛れて吉野を出立したという大海人皇子たちが、林間の花などを見ている余裕はなかったはずですが、もしも、チラリと目に映っていれば、花たちは戦いに向かう大海人皇子一行につかの間の安息と落ち着きを与えたことでしょう。

 

「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑦ 浄見原神社(国栖奏)(吉野町)

「壬申の乱」ゆかりの奈良歴史スポット ⑨ 菟田の吾城(阿騎野)(宇陀市)
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