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『大和名所図会』今昔めぐり ⑳玄賓庵

江戸時代の作家・秋里籬島と絵師・竹原春朝斎が奈良を訪れ、183点の絵と紀行文をまとめ、寛政3年(1791年)に刊行した『大和名所図会』。奈良県内各地の風景や社寺境内の鳥瞰図、自然や旧跡、年中行事や名産・習俗・伝承などが掲載され、奈良の魅力が盛りだくさんに紹介されています。江戸時代の作家と絵師が見た奈良の名所風景をたどり、追体験を楽しめるスポットを紹介していきます。
【参考】『大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会』(大正8年)(国立国会図書館)

20.玄賓庵(巻之四)(関連スポット:玄賓庵)

 

奈良時代~平安時代初期の僧玄賓(げんぴん)が隠棲した庵。玄賓は河内の出身で、興福寺の宣教に法相宗を学びました。

 

山陰・山陽地方を渡り歩いた後、桓武天皇の病気平癒を祈願したことから、大僧都に選任されましたが、玄賓はこれを固辞しました。さらに、嵯峨天皇の信頼を得て、嵯峨天皇の兄である平城上皇の病気平癒も祈願。今度は平城上皇から大僧正を任じられましたが、これも辞退しました。天皇・上皇からの任命を断るのは、よほどの覚悟と信念がなくてはできません。

 

その信念はどのようなものだったのでしょうか。『大和名所図会』の本文には、玄賓は「ここに隠れて、白雲を枕にし、風は月と共に清うして、世の塵埃に染まることをさけ」、「山階寺のやんごとなく智者なりけれど、世を厭ふ心ふかくして、さらに寺院のまじはりを好まず」とあります。“厭世観を持ち、人や社会との交流を避ける孤高の人”であったようです。

 

そして、玄賓は世のわずらわしさを避けるように、三輪川のほとりに小さな庵を建てて住みました。そこは「山空(むなし)うて常に松子落ち、谷幽(かすか)にして人跡稀なり」(大和名所図会本文)という静寂に包まれた山中です。

 

挿図には、「三輪川の清き流れにすすぎてし衣の袖を又は汚さじ(発心集)」の歌が記され、玄賓は花に親しみ、庵前にはせせらぎが聞こえる清流。三輪の里の人々も描かれています。大僧正になることを断ってでも隠棲を選んだ玄賓と三輪の人々にどのような交流があったのか、気になります。

 

よく見ると、庵の草葺きの屋根にはツギハギのような跡が。それでいて、絵の玄賓には悲壮感がありません。現代人も陥りがちな経済力や権力、物質的な豊かさよりも、自らの信念に従って心豊かに満ち足りた等身大の暮らし。1200余年前の僧の生き様がしのばれます。

 

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