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『大和名所図会』今昔めぐり ⑰相撲の濫觴(巻之三)(関連スポット:相撲神社など)

江戸時代の作家・秋里籬島と絵師・竹原春朝斎が奈良を訪れ、183点の絵と紀行文をまとめ、寛政3年(1791年)に刊行した『大和名所図会』。奈良県内各地の風景や社寺境内の鳥瞰図、自然や旧跡、年中行事や名産・習俗・伝承などが掲載され、奈良の魅力が盛りだくさんに紹介されています。江戸時代の作家と絵師が見た奈良の名所風景をたどり、追体験を楽しめるスポットを紹介していきます。
【参考】『大日本名所図会 第1輯 第3編 大和名所図会』(大正8年)(国立国会図書館)

17.相撲の濫觴(巻之三)(関連スポット:相撲神社など)

 

この挿図の題にある「濫觴」。何とも難読難解の語が使われています。読めないので調べました。「らんしょう」と読み、物事の始まり・起源という意味のようです。相撲は日本の国技ともいえる、現代でも人気のスポーツです。奈良はその「発祥の地」とされています。

 

その根拠として挙げられるのが、『日本書記』に記された垂仁天皇の“天覧相撲”です。垂仁天皇7年7月7日の条に、「當麻郷には當麻蹶速(たいまのけはや)という勇敢剛力がいて、天下に敵なしと豪語していたところ、天皇が力くらべをさせようと、出雲の野見宿禰(のみのすくね)が召され、両人に力くらべをさせた。すぐさま蹶速は腰の骨を折られて死んだ」旨が記されているのです。

 

宿禰が蹶速を投げ飛ばしたシーンが描かれている挿図にも、「垂仁天皇御年 当麻の蹶速と 野見の宿禰と ちからを争ふ これ相撲のはじまりなり」と記述されています。『大和名所図会』の本文には、「野見宿禰をめし、蹶速とすまひをとらしめ給ひき」と記され、蹶速を負かした(というより殺した)宿禰は「勝ちたる賞に、蹶速が地を野見宿禰に賜はれり」と褒美までもらったということです。ちなみに、本文に「ここを腰折田と名けて」とあり、奈良県香芝市に腰折田の伝承地があります。

 

挿図の右の檀上、黒い衣をまとっているのが垂仁天皇でしょう。蹶速と宿禰は筋骨隆々に描かれているわけではありませんが、蹶速の体は妙な角度で曲がっています。これはたまりません。スポーツというより、事件です。古代の力くらべには、降参、ギブアップは許されなかったのでしょうか。蹶速さん、お気の毒に。

 

現代の大相撲では、蹴ったり、勝敗がついた後に相手を突いたり、はたいたりは固く禁じられていて、崇高な品格が求められる横綱や大関などがこれをしてしまうと、苦言が飛んで、処分に発展してしまいます。

 

左に立つのは、行司でしょう。矢筒を背負い、弓をたずさえています。弓矢はこの場合、穢れをはらうものと考えられ、この力くらべ(相撲)に神事の性格があったことが読み取れます。現代でも結びの一番の後に弓取りが行われ、その日の相撲が締めくくられます。

 

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