• 奈良事典

大和の伝統行事④ 唐招提寺のうちわまき

鑑真が創建した唐招提寺が新緑に包まれる毎年5月19日に行われる「中興忌梵網会(ちゅうこうきぼんもうえ)」。病魔退散や魔除けにご利益があるとされるハート型のうちわを授かろうと、法要の後に行われる「うちわまき」を目当てに多くの人が、大和の初夏の風物詩に集まります。

【宝扇をまく初夏の風物詩】

奈良市にある、鑑真創建の唐招提寺。世界遺産にも登録されている古刹は、境内に一歩入ると、歴史の深みを感じさせるスケールの一方、深閑とした雰囲気が漂います。その境内が新緑に包まれる頃、毎年5月19日に「中興忌梵網会」が行われます。

 

鎌倉時代に唐招提寺を中興された大悲菩薩覚盛上人のご遺徳をしのぶもので、法要が終わると、鼓楼から「宝扇」と呼ばれるうちわがまかれる「うちわまき」は特によく知られ、大和の初夏の風物詩として定着しています。

 

唐の高僧鑑真は、聖武天皇の懇請に応じて、来日を決意。度重なる海難や失明などに遭いましたが、挫折することなく日本海を渡り、754年に平城京に到着しました。このときの不退転の物語は、井上靖の小説『天平の甍』でよく知られています。

 

唐招提寺はその鑑真が戒律習学の寺として759年に創建。鑑真は763年に遷化されますが、唐招提寺の伽藍は徐々に整えられ、現在、金堂、講堂、鼓楼、経蔵、宝蔵(いずれも国宝)、御影堂(重文)などが重厚な雰囲気をたたえて佇んでいます。

 

 

【覚盛と蚊のエピソード】

 

平城京から平安京へと都が遷ると、南都諸寺は徐々に衰退していきました。しかし、鎌倉時代に入ると、南都仏教復興の機運が高まり、興福寺に戒律研究機関「常喜院」が設立されました。その学僧に覚盛がいました。

 

覚盛上人は52歳の時に唐招提寺に入り、戒律復興に情熱を注ぎ、解釈書を著したり、法華経などを書写して供養したりしました。

 

うちわまきの宝扇の由来となった、こんなエピソードがあります。

 

覚盛上人が戒律を講説している時、弟子たちの周囲で蚊がうるさく飛んでいました。弟子のひとりが群がる蚊を叩こうとすると、覚盛上人は「蚊に自分の血を与えるのも菩薩行である」と諭したといいます。これにちなみ、覚盛が57歳で早逝した後、蚊を叩くなどして殺してしまわないように、風圧で蚊を払う、うちわを手作りし、御前に供えたことが、宝扇の始まりと伝えられています。

 

江戸時代の暦の5月19日に「唐招提寺うちわまき」と記されたものもあり、うちわまきは古くから民俗行事として定着していたと考えられます。

 

 

【ハート型のうちわに祈りを込めて】

 

宝扇は唐招提寺内で手作りされます。柄となる竹、梵字を木版刷りする和紙などが20を超える工程を経て、ハート型のうちわができあがります。

 

5月19日当日13時~中興忌梵網会の法要が営まれます。講堂本尊の弥勒如来坐像の前に覚盛上人の画が掲げられ、無数の宝扇がそれを囲み、野菜や果物など百味も供えられます。

 

法要が終わり、15時になると、いよいよ「うちわまき」です。国宝の鼓楼から寺僧たちによって、宝扇が次から次へとまかれます。参集した善男善女がこれを授かろうと、手を伸ばし、鼓楼前は群集の歓声で大いに賑わいます。

 

現在用意される宝扇は1500本。すべてをまくと、授かりたい人々が押し寄せて危険も予想されるため、鼓楼からまかれるのは数百本です。残りはあらかじめ整理券を配り、僧坊で手渡しされています。

 

ハート型の宝扇は、千の手をもってあらゆる苦悩から救ってくださる千手観音と、どんな穢れも除いてくださる烏須沙摩明王の2種類の御真言が梵字で印刷されています。これには病魔退散や魔除けのご利益があるといわれ、また、農家の人々が宝扇を田んぼに差しておくと害虫除けになる―、豊穣の意から子宝・安産の護符になる―など、民間信仰とも結びついたご利益も生まれ、これらにあやかりたいと願う人々で、普段は閑静な境内も、この日ばかりは大いに華やぎます。

 

古都の風情をそよがせる宝扇を1本でもいいから授かり、手元に置いておきたいものです。