【日本人の死因第1位の病を封じる】
厚生労働省の「平成28年(2016)人口動態統計(確定数)」によると、日本人の死因のうち、約3割(男性32%、女性24%)が悪性新生物、すなわち「ガン」となっています。
冒頭いきなり不安な気持ちにさせてしまったかもしれませんが、奈良に「ガン」を封じてくださるという古刹があります。年2回、1月23日と6月23日にガン封じの笹酒が振る舞われる大安寺です。境内で竹の盃に注いでもらった日本酒をいただくという風流も味わえる年中行事となっています。
竹には次のような効能があるといわれています。解熱、清涼、高血糖。頭痛や利尿には葉を煎じて用い、内皮を煎じれば脳疾患に、竹の油を用いると鎮咳に、竹を炙って出る液汁には制癌に効あり―と。
さらに、古来、百薬の長といわれている清酒。竹の杯でお酒をいただくというのは、理にかなっていると言えそうです。
【聖徳太子ゆかり、空海も修行した大安寺】
大安寺の由緒をさかのぼってみましょう。始まりは、聖徳太子が創建した熊凝精舎にたどりつきます。病を患った太子を、推古天皇の命で田村皇子が見舞いに訪れた際、太子は精舎を大寺(官寺)とするよう伝言。田村皇子は舒明天皇として即位した後、熊凝精舎を百済大寺とし、さらに後年、天武天皇の時代に大官大寺と改められました。
さらに、藤原京からの平城遷都にともなって現在の奈良市に遷寺され、寺名も「大安寺」となりました。造営には、遣唐使船で唐に留学し、帰国した道慈律師が当たりました。
最盛期の大安寺は、平城左京の六条と七条にまたがる広大な寺域を持っていました。中門から金堂へ回廊が巡らされ、鐘楼、講堂、三面僧坊など数々のお堂が境内を埋め、七重の大塔もそびえていたとされる大伽藍を誇りました。
起居・修行する僧も多く、空海ら約800人がいたとも。鑑真の招聘に尽力した普照も、空海の師である勤操も大安寺の僧でした。また、東大寺の大仏開眼に携わったインドや唐の高僧らも大安寺に滞在したといいます。
そんな大安寺の大伽藍も、寛仁元年(1017年)の火災で諸堂が焼失。再建・再興は道半ばとなり、やがて現在の規模に落ち着きました。昭和時代の住職、河野清晃師は数々の年中行事や法要の開始、または再開を目指し、大安寺再興に努められました。
【1月23日と6月23日】
さて、笹酒に戻りましょう。
1月23日の「癌封じ笹酒」は、『続日本紀』に記された、桓武天皇が先帝の光仁天皇の一周忌の齋会を大安寺で営まれたという故事にちなむ「光仁会」として行われます。
光仁天皇ご自身、大安寺の竹を盃に、酒を注いでお召しになり、無病息災を保ち、当時としては“超長寿”の73歳まで在位されたといいます。1月の笹酒は、光仁天皇にあやかって、ガンをはじめとする悪病難病を封じて、健康に暮らそう―との願いが込められているのです。
6月23日の「癌封じ笹酒」は、中国の故事にちなみます。中国では古来、陰暦5月13日(太陽暦6月23日)に竹を植えるとよく育つとされ、竹酔日、竹迷日などと呼ばれています。境内に銘竹が数多く植わる大安寺では、竹に感謝する「竹供養」として、この日を迎えます。
この日は早朝から癌封じの祈祷が行われます。参拝者は竹の盃を買い求め、それを手に艶やかな和装の笹娘から清酒を注いでもらい、無病息災を願って、ちびりちびりと笹酒をいただくのです。また、虚無僧の尺八奉納演奏や竹の植樹などが関連行事も行われ、境内は1年で最もと言えるほどに賑わいます。
病は気からと言います。大安寺の笹酒をいただいて、「これで大丈夫」と、そう思えることが一番の効能なのかもしれません。笹酒は年2回ですが、癌封じのお守りなどは年間を通じて販売授与されています。