城主の盛衰見つめた激動の城
本丸跡から天守閣跡を望む
「宇陀松山」と言うと、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている城下町の町並みを思い浮かべる人が多いかもしれません。その町並みの東にかつて城が築かれていました。
郡山城、高取城とともに「大和三城」と称された国史跡の宇陀松山城です。詳しい築城年代は判明していませんが、遅くとも南北朝時代には周辺地域を領分していた「宇陀三将」の一角である秋山氏が居城していたとされます。
時は戦国、1585年、豊臣家の支配が大和国に及ぶと、秋山氏は宇陀から退去しました。秋山氏の居城時代には「秋山城」と称された城も、関ヶ原の戦い後に入城した福島高晴の時代に「松山城」と呼ばれるようになりました。
高晴は賤ケ岳の戦い(1583年)で秀吉軍の〝七本槍〟として武功をあげた福島正則の弟です。関ヶ原では徳川側に属しましたが、1615年の大坂夏の陣で大坂方に味方したと疑われ、福島氏は改易処分、宇陀松山城は廃城処分になりました。
一方、城下町は江戸幕府の天領となり、薬・油・紙・酒・葛などを商う町家が軒を並べる「商家町」として栄えました。
シャチやゾウの瓦製品が出土
V字に切れ込んだ横堀
ふもとの春日神社から登城道が延びています。木立の中に見える大規模な横堀や石垣を見上げながら本丸跡地に到着。春日神社から徒歩約20分です。天守台の面影もわかります。
廃城の際に石垣や石段道などが完全に破壊されずに、一定規模残されています。城の雄姿は現存していませんが、山城のスケールを想像しながら、その名残を感じ取ることができるでしょう。
宇陀市教育委員会の発掘調査では、本丸御殿や石垣などの規模が明らかになりました。さらに16世紀末に製造されたとみられる鯱(シャチ)瓦や象形瓦製品、同時期に城主だった多賀家の家紋入り瓦も出土しました。
茶人としても知られる小堀遠州が廃城を司った際の書状も見つかっており、貴重な史料からも、宇陀松山城の盛衰が浮かび上がります。
伝統的町並みを散策
登城後は、江戸時代後期~明治時代の町家が残るノスタルジックな町並みを散策。格子、虫籠窓、駒寄せ、卯建(うだつ)など、伝統的な建築パーツに視線が吸い寄せられます。約400年前に城下町の出入口に築かれた国史跡「西口関門」も往時をしのばせます。
日本最古級の薬草園「森野旧薬園」、情報と物産の拠点「道の駅宇陀路大宇陀」、大宇陀温泉「あきののゆ」なども、おすすめの立ち寄りスポットです。
道の駅で手に入れた散策マップを片手にゆっくりと巡れば、往時の城下町の息吹を体験することができるでしょう。
〒633-2114 奈良県宇陀市大宇陀春日
橿原市(近鉄大和八木駅)から車で約40分