今にも残る堅牢な石垣
「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」と白亜の見事さを謡われた大和高取城。美濃岩村城(岐阜)、備中松山城(岡山)とともに日本三大山城のひとつに数えられます。
奈良盆地と吉野地方との間に障壁のように連なる高峰にあり、近世の山城としては異例の高さと規模を有し、築城以来、幕末まで600年余りの歴史を持ちます。
南北朝時代、越智氏によって築かれた高取城は、越智氏の本城貝吹山城と常に連携を取っていた城です。
城下町は札ノ辻で町家と武家屋敷群に区分され、旧高取藩の家老屋敷、武家屋敷などが現存し、土佐の町を中心に低い軒先、出窓、格子戸の古い町並みが続き、土佐街道には油屋、鋳物屋、呉服屋など500軒が立ち並び、賑わっていたといいます。
天正8年(1580年)、織田信長の大和国一国一城令により廃城になりましたが、天正12年に筒井順慶が高取城を郡山城の詰の城(最終拠点となる城)として復興しました。
天正13年、大和・和泉・紀伊の3国は豊臣秀長が領することになり、高取城には秀長の家臣本多正俊が入りました。秀長は居城の郡山城の大改修とともに、高取城も近世城郭へと改修しました。
本多氏に代わり、寛永17年(1640年)に植村家政が入封し、植村氏が明治まで代々城主を務めました。
文久3年(1863年)には天誅組の変が勃発し、高取藩は天誅組に応戦。大砲と鉄砲を駆使し、勝利しました。高取城が敵に攻められたのは、この一度だけといわれています。
高取城は明治維新で廃城となり、天守以下の建物が取り壊されましたが、算木積みの天守台石垣や櫓跡が残り、奈良や大阪方面を一望できます。秋は周辺の山々に色づく紅葉が見事です。
また、城下町には二の門(子嶋寺)と新御殿表門(石川医院)が移築されて残り、その堅牢さは往時の難攻不落ぶりを漂わせています。